針供養は事八日の行事、「事始め」「事納め」の特別な日

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目次
 1. 針供養の起源は、淡島神という女性の守り神
 2. 全国の多くの寺社で針供養の伝統行事
 3. 事始めと事納め、コトノカミを祀る事八日の祭り
 4. 昔の女性にとって、裁縫は必須の技能だからこそ大切
 5. 裁縫技術は社会を変え、針は暮らしに大切な道具

 6. 家庭科で必要な裁縫セット、必要な道具が一式そろいます

出典: Oggi.jp


針供養は、折れたり、錆びたり、曲がったりして使えなくなった縫い針を集めて社寺に納めたり、豆腐やこんにゃくなどの柔らかいものに刺したりして縫い針を供養する行事で、2月8日または12月8日に行われます。毎日裁縫をしている人も、この日は裁縫を休んで針の供養を行います。裁縫に欠かせない針に感謝すると同時に、裁縫がもっと上手になるようにと願います。
東日本では2月8日、西日本では12月8日に行うところが多くみられましたが、地域に関わらずどちらか一方の日に行うところや、両日行うところもあります。

1 針供養の起源は、淡島神という女性の守り神

針供養(はりくよう)は、日頃の針仕事で折れ、曲がり、錆びなどによって、使えなくなった縫い針を、豆腐・こんにゃく・餅などに刺して供養し、紙に包んで社寺に納め、裁縫の上達を祈る行事です。針をやわらかい物に刺すのは、堅い布を縫ってくれた針に感謝し、ねぎらうという意味がありました。針を川や海に流す地域もあるようです。主に淡島神社(粟島神社)または淡島神を祀る堂(淡島堂・粟島堂)がある寺院で行われます。関東では2月8日、関西や九州では12月8日に行われることが多く、この日は針仕事を休んで針を使わないのが習わしになっています。

淡嶋神社の御祭神である少彦名命(すくなひこなのみこと)は、薬と医療を司る薬祖神として崇敬を集めています。 婦人病治癒を始めとして安産・子授け、裁縫の上達、人形供養など、女性に関するあらゆることに霊験のある神とされ、御利益があるといわれます。江戸時代には淡島願人(あわしまがんにん)と呼ばれる人々が淡島神の人形を祀った厨子を背負い、淡島明神の神徳を説いて廻った事から信仰が全国に広がりました。針供養は、江戸時代後期から明治時代にかけて、裁縫学校などで技能の上達を祈って行われたのが定着したものなどの説があるようです。

縁結び・安産の神として女性の信仰を集める淡島神社では、毎年3月3日に、近隣の芦名海岸で、雛人形を乗せた和船をボートでえい航し、参拝客の願いを託した紙人形を海に流す流し雛の祭礼があります。人形供養の神社としても有名で、境内には供養のために納められた、無数の日本人形や市松人形、その他信楽焼の狸の置物や招き猫、福助人形などといった郷土玩具が境内に陳列されています。

中国の「社日(土地神の祭日)に針線(針と糸、針仕事)を止む」を起源とした古い慣わしが日本に伝わり、針供養は全国各地で行われ、関東では浅草寺境内の淡島堂、関西では京都・法輪寺や和歌山・淡嶋神社で行われる針供養が知られます。建立された針供養の堂は、”針を供養する”ことを目的とされ、「針への感謝や労い」「裁縫の上達を願う」という意味合いがあります。

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出典:カナロコ by 神奈川新聞

2 全国の多くの寺社で針供養の伝統行事

出典:法輪寺 針供養
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平安時代に清和天皇によって針供養の堂が法輪寺に建立されたとされているので、9世紀後半には日本に針供養の風習があったと考えられています。京都市西京区にある法輪寺では、針仕事の上達を願う針供養の行事が行われます。大きなこんにゃくに色糸をつけた大針を刺し、供養を行うのが特徴です。

法輪寺の針供養の行事は、平安時代に皇室で使用された針の供養を清和天皇より命ぜられたことに始まると伝わります。毎年12月8日と2月8日に行われ、現在でも12月の法要では、皇室から下賜された針の供養を行っています。本堂での法要には日本舞踊「織姫の舞」なども奉納されます。本堂において読経の中、参拝者は2段重ねの大きなこんにゃくに、五色の紐が付いた長針を刺し、針に感謝して、技芸の上達を祈願しています。

法輪寺は智恵・福徳・技芸上達のご利益があるといわれ、 嵯峨の虚空蔵さんと呼ばれるように、ご本尊は虚空蔵菩薩です。 丑・寅年生まれの守り本尊と知られており、智恵・福徳の仏様として京都の人々に親しまれています。古くから伝わる京の恒例行事「十三詣り」で知られ、数え年で13歳の男女が、渡月橋を振り向かずに渡って同寺に参拝すると、知恵が授かるとされます。数え年の13歳は、生まれてから干支が一周するタイミングです。そのため十三参りは、人生の節目である13歳まで健康に育ったことに感謝する意味合いがあります。

平安時代のはじめ、幼くして帝位についた清和天皇が数え年13歳になった折、成人の証として法輪寺で勅願法要を催したことから、成人儀礼として法輪寺の虚空蔵菩薩に詣でて智恵を授けられる十三まいりが行われるようになりました。現在も13歳は人生の大きな節目とされ、十三まいりは智恵を授けて立派な大人になり、幸福な人生を送ることができるよう祈願する重要な通過儀礼です。古来から、写経を奉納するのがもっとも丁重な参拝方法とされていたのに習い、十三まいりでは、漢字一字を書き、一字写経として虚空蔵様に奉納し、書いた文字を本人お身代わりとして祈願されます。

3 事始めと事納め、コトノカミを祀る事八日の祭り

農家では事の神(コトノカミ)は田の神様なので、作業を締めくくる12月8日が「事納め」となり、年が明け農作業を開始する2月8日を「事始め」としました。
事の神(コトノカミ)が年神様を表す場合は12月8日を「事始め」と呼び、お正月の準備を始める日となります。年越しから正月を終え、後片付けがすべて終わる2月8日で「事納め」となり、神事の期間を終え、ここからは人の日常が始まります。


田の神様        農作業を締めくくる12月8日 → 事納め
      事始め ← 年が明け農作業を開始する 2月8日   


年神   事始め ← お正月の準備を始める12月8日
  年越しから正月を終え、後片付けが終わる 2月8日 → 


農業の仕事から見ると、12月8日は「事納め」で、2月8日が「事始め」になります。2月8日は旧暦ですので、現代では3月中旬にあたり、ちょうど農作業を始めるタイミングなのです。食事の「お事汁」には代表的な農作物が入り、冬場ということで根菜やお豆腐が入ります。

針供養は毎年2月8日や12月8日に行われることが多く、この日が選ばれた理由には、事八日と呼ばれる日本の伝統行事が関係しています。かつて日本では、2月8日と12月8日の事八日は、農業や手工業に従事する人々が作業を休み、神様や道具に感謝を捧げる特別な日とされてきました。この日は「つつしみをもって過ごす日」とされており「針仕事を休むべき」とされていたことから、針供養の日となったのです。事八日の日には、農作業や針仕事などの仕事一切を休み、身を慎む「物忌み(ものいみ) の日」でもあり、各地で「妖怪(あるいは厄神)が出る」と考えられています。この日は「メヒトツ小僧」や「大眼(ダイマナコ、ダイマナグ)」などと呼ばれる一つ目の妖怪が現れる日だと信じられていたのです。

出典:じゃらん遊び体験
出典:X|株式会社みつよ不動産
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4 昔の女性にとって、裁縫は必須の技能だからこそ大切

出典:和樂web 美の国ニッポンをもっと知る!
出典:日本紐釦貿易
出典:裁縫箱|すぎなみ学倶楽部

江戸時代の女性にとって、重要な家事のひとつは着物が縫えること、裁縫ができるという「針仕事」でした。娘たちは、幼い頃から花嫁修業の一つとして、母親から教わったり、お針の師匠へ習いに行ったりして針仕事の技術を身につけます。裏地のない単(ひとえ)の着物を縫い上げるくらいの技術は、江戸の女性には必須の技術でした。裁縫箱は、嫁入り道具に欠かせないものになりました。

「針仕事」ができることは女性として一人前であり、仕事ができることに役立ちます。「お針」という縫い物担当の奉公人として雇われることもあり、独り身の女性が個人で着物の仕立てや修理の仕事を請け負うこと、内職として着物の仕立てや修理を請け負うこともできるということは、当時には少なかった女性の職業として自立することができました。

農家の女性は、針仕事だけではなく、機織りもしていました。織った布で家族の着るものを作るだけではなく、織った布を売って、貴重な現金収入を得ていました。機織りは、農家だけではなく、武家でも、内職として機織りをする家もあったようで、特に下級武家ではどこの家でも内職を行っていたので、織った反物の収入は家計の助けになっていました。

針供養の日は、普段に針仕事で使っている針を休めるため、針には触れずに過ごし、針仕事を休みます。また、この一年の間に曲がったり、折れたりして使えなくなった古い針を、豆腐やこんにゃくなどの軟らかい物に刺して休ませて神棚に供えたり、寺や神社に納めて供養するとともに、今後、ますます針仕事が上達しますようにと祈る行事です。

針供養では、豆腐やこんにゃくに針を刺して供養する方法が一般的です。これは、普段は硬い布や素材を縫うために酷使された針を、柔らかいものに針を刺すことで労う意味が込められています。針を刺しながら「お疲れさま」「ありがとう」と、感謝の言葉を伝えることが大切なことです。こうした針供養の行為は、道具を大切にする心を育み、物に感謝する伝統文化を感じさせるものです。


5 裁縫技術は社会を変え、針は暮らしに大切な道具

江戸時代になり生活が安定すると、武家も庶民の衣服も豊富になり、裁縫技術も進展しました。女性が結婚して家庭の主婦になれば、家族や奉公人の着物の破れを繕ったり、着物のサイズを調整したり、普段から、着物を縫わなければなりません。子どもの着物は、古い着物をほどいて「洗い張り」をし、子ども用に仕立て直したり、おむつに縫い直しすることになります。

針仕事は女性の嗜みとされていました。江戸時代中期以降、広く普及した女子教訓書である『女大学』では、貝原益軒は女子教育の理念を示し、結婚後における実生活の心得を説いています。当時の女子用教訓書でも、裁縫は女子が身に付けるべき教養の一つとされて重んじられました。家庭の娘たちは親から躾けられ、お針師匠のもとや寺子屋に通って裁縫の指導を受けました。この時代、裁縫は女子にとって大切であり、嫁入りの資格でもありました。

1872年(明治5)には尋常小学校の女児に手芸科が、1879年(明治12)発布の小学校教育令では裁縫科が設けられ、以来、初等・中等教育において裁縫教育が重視されました。同時期には、太政官(だじょうかん)布告によって、礼服はすべて洋装とする旨が達せられことで、洋服裁縫の必要が生じることになりました。上流階級の婦女子の間に洋装の嗜好が生まれ、東京女子師範学校では教員・生徒が洋服を着用しました。洋服の需要が増すことで、横浜の居留地には、外国人西洋服師が指導した日本人の裁縫の職人を養成し、そこで技術を習得した人が独立して横浜、東京、神戸に洋服屋を開き、洋裁技術は進歩しました。
 
大正時代中期になると生活改善運動が起こり、洋服は女学生の制服、運動服、一部職業婦人服、子供服、肌着などに広まり、洋服化が高まりました。大正末から昭和になると各地に洋裁学校がつくられ、女学校においても洋裁が教科書に採用されました。第二次世界大戦後、欧米のモードが導入され、新しい洋裁技術が普及、開発されることで、和服から洋服への革命的転換期を迎えたのでした。

出典:神戸女学院大学
出典:一般財団法人星ヶ丘学園
出典:中国新聞デジタル

6 家庭科で必要な裁縫セット、必要な道具が一式そろいます


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