歴史から見える人々の暮らし、暦と祭りの文化
今日の趣き-blog-
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目次
1. 唐津くんちは、唐津神社の秋季例大祭
2. 唐津くんちの由来と、祭りの行事
3. 曳山行事巡行ルート、唐津くんちの3日間
4. 曳山、曳子と曳子組織
5. 囃子小唄と14台の曳山
6. 玄界灘に面した唐津は、自然に恵まれ絶景スポット
九州北部の秋まつりのひとつで、14台の曳山(ひきやま)と呼ばれる漆塗りの山車を、町の人が「エンヤー、エンヤー」「ヨイサー、ヨイサー」の掛け声で曳いていきます。曳山の形はどれも異なり、獅子や兜、亀や鯛などの形をしていて、和紙や漆、金箔などで仕上げられた世界最大級の乾漆造の美術工芸品です。
重陽の節句の旧暦9月9日を指す「供日(くにち)」が由来で、「おくにち」がなまって「くんち」という呼び方になり、「おくんち」とも呼ばれています。 唐津くんちは平成28年にユネスコ無形文化遺産に登録され、以前よりさらに多くの人に注目されるようになりました。
1. 唐津くんちは、唐津神社の秋季例大祭
唐津くんちは唐津神社の秋季例大祭(しゅうきれいたいさい)のことです。くんちとは重陽の日の「供日(くにち)」が九州の方言で訛ったもので、九州北部地方では秋祭りの事を「くんち」と呼びます。秋の実りを神様にお供えして五穀豊穣に感謝するお祭りなのでしょう。唐津神社は、建てられたのが奈良時代といわれる古い神社で、一ノ宮 では「住吉三神(底筒男命・中筒男命・表筒男命)」、二ノ宮では「神田宗次公(こうだむねつぐこう)」を祀ります。唐津神社の秋季例大祭では、唐津の最大のお祭り「唐津くんち」が行われ、11/2~4に14台の曳山が唐津のまちを巡行します。
神輿の渡御は江戸時代の寛文年間(1661~1673)頃に始まったと伝えられ、曳山は神輿にお供して神様を警護するためのものです。曳山の誕生は、氏子町の刀町が「赤獅子」を文政2年(1819)に唐津神社へ奉納したのが始まりで、それ以後、15台の曳山が製作され、その内一台が明治中期に損滅し、現在14台が現存しています。製作には3年前後を費やされ、木組み・粘土で原形をつくり、その上から和紙を張り重ね、漆を塗り重ね、金銀を施したものです。1台あたりの重さは2~4トンあり、1台あたり曳き子200~400人で曳いています。
昭和43年(1968)には、本祭のうちの本殿祭のみを10月29日のままにして、神幸祭(御旅所神幸)を祝日である11月3日に変更し、宵曳山を11月2日に、町廻りを11月4日に変更されました。一般には、曳山の巡行をともなうこの11月2日からの3日間が「唐津くんち」と呼ばれるようになりました。
2. 唐津くんちの由来と、祭りの行事
昭和31年の曳山の曳き出し風景。曳山巡行最大の見せ場です。
昭和5年 二代目「鯱」落成記念
毎年11月の2日から4日の3日間にわたって開催され、「エンヤ、エンヤ」「ヨイサ、ヨイサ」のかけ声で曳山(ヤマ)が通りを駆け抜ける勇壮なお祭りです。
刀町の石崎嘉兵衛が、お伊勢参りの帰りに京都で見た祇園山笠にヒントを得て、文政2年(1819)、仲間と「赤獅子」を作り奉納したのが曳山行事の始まりです。曳山は県の重要有形民俗文化財、曳山行事は国の重要無形民俗文化財に指定されており、平成28年には全国33件「山・鉾・屋台行事」のひとつとして、ユネスコ無形文化遺産に登録されました。
初くんち、10月9日。唐津神社の神前で各町の曳山囃子を奉納します。各町の囃子の稽古が本格化し、町全体にムードが高まっていくのもこの頃からです。
神輿飾りと唐津神祭本殿祭、10月29日。御旅所神幸で巡行する唐津神社の神輿の飾りつけと、その年の豊作・商売繁盛を神前にて報告し、感謝する本殿祭が行われます。もともとは、この本殿祭が祭りの中心的な儀式です。
宵曳山(よいやま)、11月2日。刀町の「赤獅子」を先頭に曳山は提灯をつけて巡行します。
御旅所神幸(おたびしょしんこう)、11月3日。唐津神社を出た曳山は、西の浜にある御旅所へ向かいます。勇壮でありながら、極彩色の絵巻のようで、祭りは最高潮に達します。
翌日祭、11月4日。翌日祭で、祭りの興奮さめやらぬまま曳山は唐津神社横の曳山展示場へと曳き納められます。
神輿受取渡の儀(神輿仕舞い)、11月5日。その年の神輿の当番町から翌年の当番町へ神輿を引き渡す儀式です。
3. 曳山行事巡行ルート、唐津くんちの3日間
唐津神社の秋季例大祭。一番曳山「赤獅子」から十四番曳山「七宝丸」まで14台の曳山が笛や太鼓の囃子にあわせ、掛け声とともに唐津のまちを巡行します。
宵曳山(ヨイヤマ)・11月2日
提灯の灯りに照らされた14台の曳山が、唐津の城下町を廻ります。(19:30)火矢の合図で唐津市大手口より一番曳山「赤獅子」が出発、各町内から翌日の御旅所神幸に備え出発し、旧城下町を巡行しながら14台の曳山が合流しながら巡行した後、(22:00頃)唐津神社前」に整列します。
御旅所神幸(おたびしょしんこう)・11月3日
(この日の朝5:00)神前にて獅子舞を奉納、口元をカブカブと動かすところから「カブカブ獅子」と呼ばれています。(9:30)御神輿(おみこし)は唐津神社を出発し、顕現なされた西の浜へ曳山を従えながら町中を神幸します。14台の曳山は御神輿のお供をして御旅所である西の浜へ向かいます。西の浜での曳込みでは2~3トンにもなる曳山は車輪が砂地に埋もれ、なかなか進まず、曳子たちの掛け声も最高潮に達します。その豪快な様子はまさに圧巻です。(正午)唐津くんち最大の祭事であるお旅所祭が斎行されます。
翌日祭(よくじつさい)・11月4日
翌日祭では御神輿は出ず、(10:00)曳き子と曳山が町中を巡行します。(夕刻)唐津神社横の曳山展示場へ曳き納められます。曳山は来年まで眠りにつきます。最終日ともあって曳子の掛け声も観客の声援も一体となり、曳山は唐津神社横の曳山展示場に曳き納められ、3日間に及んだ行事は幕を閉じます。
4. 曳山、曳子と曳子組織
唐津くんちに登場する14台の曳山は、各々14の町がそれぞれの組織を通じて運営し、自らの町及び曳山に誇りを持ち、伝統を重んじ、後継者の育成をしています。また、年間を通じての様々な行事を通してお互いの結束を固め、親睦を深める事で、統制のある祭りを目指しています。
曳山の構造は、木組みに粘土で型を作り、その上に和紙を1~3cmの厚さまで100~200枚近くを蕨糊(わらびのり)や渋柿などで張り重ね、型を抜き取り、竜骨を組みます。麻布と漆で固めて下地を造り、粉屎漆(こくそうるし)で形状を整え最後に色漆を塗り金箔で仕上げていきます。本体は木製の4輪台車に心柱1本で支えられています。製作期間は3~6年を要したとされています。世界最大級の乾漆造(かんしつづくり)の美術工芸品です。
唐津では、曳山に参加する人のことを「曳子(ひきこ)」と呼びます。 曳子は、曳山を唐津神社に奉納した14町内の在住者か、町に認められた町外者に限られます。曳子の衣装は、いわゆる火消し装束といわれるもので「肉襦袢(にくじゅばん、 にくじばん)」や「長法被(ながはっぴ)」、町内毎にデザインが異なる「ハチマキ」で意匠と工夫が凝らされています。
唐津くんちは、昭和33年に佐賀県重要有形民俗文化財、また、昭和55年に国の重要無形民俗文化財に指定されました。
バウムクーヘン さが錦
村岡屋
地に山芋を練り込み、ふんわりと焼き上げたもの美しく層をなすバウムクーヘンで挟みました。生地は、小豆と栗を練り込んでおり、小豆や栗を懐に抱くその佇まいから「浮島」と呼ばれています。
5. 囃子小唄と14台の曳山
提灯の灯りに照らされた14台の曳山が唐津の城下町を廻ります。
火矢の合図で唐津市大手口より一番曳山「赤獅子」が出発し、途中で各町が建制順に合流しながら巡行した後、唐津神社前に整列します。
1番 刀町
「赤獅子」
2番 中町
「青獅子」
3番 材木町
「亀と浦島太郎」
4番 呉服町
「源義経の兜」
5番 魚屋町
「鯛」
6番 大石町
「鳳凰丸」
7番 新町
「飛龍」
8番 本町
「金獅子」
9番 木綿町
「武田信玄の兜」
10番 平野町
「上杉謙信の兜」
11番 米屋町 「酒呑童子と源頼光の兜」
12番 京町
「珠取獅子」
13番 水主町
「鯱」
14番 江川町
「七宝丸」
6. 玄界灘に面した唐津は、自然に恵まれ絶景スポット
唐津城
慶長13年に、唐津藩主寺沢志摩守広高が松浦川河口に築きました。現在の天守閣は昭和41年に建てられたもので、中は「郷土資料館」です。
虹の松原
日本三大松原のひとつです。長さ約4km、幅500mに及ぶ松林は、海風の影響で、黒松が青い海と白い砂に虹のような弧を描きます。
呼子朝市
松浦町商店街の朝市通りには元日を除いて毎日朝市が立ちます。昭和10年頃に定着したもので,日本三大朝市のひとつに数えられます。
唐津焼ギャラリー
1580年代頃に興り、茶人から愛される茶陶として発展した唐津焼は、素朴で力強い「用の美」と称えられ、市内の窯元で作り続けられます。