益子焼を生み育てた人たち、愛した郷土の人たち

暮らしを彩る伝統工芸の美と技を巡る  今日の趣き-blog-
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  目次
 1.益子焼の歴史、益子焼の特徴
 2.益子焼が生んだ二人の人間国宝
 3.益子焼の発展に関わる人たちの創作活動
 4.実用性を備えた日常の生活道具、「用の美」


1.益子焼の歴史、益子焼の特徴

益子焼(ましこやき)は、栃木県芳賀郡益子町周辺、真岡市、茂木町、市貝町で作られている陶器の名称です。砂気の多いゴツゴツとした土の質感と、重厚な色合いとぼってりとした感触が特徴で、JR信越本線横川駅の駅弁、日本随一の人気駅弁と評されたこともある「峠の釜めし」の土釜でも有名です。益子で窯が開かれ、焼き物が焼かれるようになったのは古く、奈良時代とされています。江戸時代以降、陶製日用品を作る陶器生産地として栄えました。

益子焼の魅力
益子焼の原料となる陶土にはケイ酸や鉄分が多く、可塑性(かそせい)に富むため、形を作りやすく耐火性も高くなります。 益子で採れる土は砂気が多く粘性が少なく、陶土に他の物質を加えないことから厚みのある焼き物となり、割れやすく、細かい細工が向かず、厚手でぼってりとした見た目のものが特徴となります。これが欠点といわれることもありますが、手に馴染みやすい益子焼ならではの魅力です。

出典:益子町公式ホームページ

認定No.23|倉見沢古代窯跡 | 益子町公式ホームページ

益子焼の誕生
益子焼が生まれたのは江戸時代の末期、嘉永6年(1853年)に、常陸国笠間藩(現・笠間市)で修行した大塚啓三郎が、焼き物に適した陶土を求め、益子町の根古屋に窯を築いたことが始まりとされます。益子焼の陶土は、豊富にあるものの手触りが粗く精巧な器を作るには向かなかったため、益子藩の援助を受けて水がめや火鉢、壺などの日用品が作られました。当時、関東地方は笠間焼しか焼き物がなかったため、新たな焼き物として、益子焼の評判は江戸にも広がりました。
明治時代に入り順調に発展を続ける益子焼も、明治末期には京焼などの焼き物が多く出回るようになり、また、生活様式の変化で、アルミ製や金属製の食器に変わり、益子焼の発展は陰りを見せるようになりました。しかし、1923年に起きた関東大震災で需要が増え、盛況を取り戻しました。

世界に知られる芸術品、益子焼
その後、1927年から益子に居住して創作活動を開始した濱田庄司により、花器・茶器や食卓用品などの民芸品が作られ、「用の美」を追求した民芸品を製作したことから、民衆の日常生活で使われる芸術品としても認められるようになり、日本全国に知られました。
1953年には栃木県窯業指導所を退職した島岡達三が益子に住居と窯を構えました。濱田から「早く自分の個性あるものを」といわれて作陶を続ける中で「縄文象嵌(じょうもんぞうがん)技法」が生まれます。民芸一辺倒だった益子の作陶に独創性が加えられました。
縄文象嵌とは日本古代の縄文土器に施された縒紐(よりひも)を回転させてできる連続文の圧痕に、朝鮮李朝初期の象嵌三島手などにみられる白絵土など素地と異なった色土を埋め込んで文様を表す加飾技法です。「島岡達三作品コレクション」参照ください。

出典:うつわと暮らしのよみものメディア

峠の釜めし(とうげのかまめし)は、群馬県安中市「荻野屋」が製造・販売する駅弁で、益子焼の土釜に入った薄い醤油味の出汁による炊き込みご飯の釜めしです。
直径140mm、高さ85mm、重量725gの益子焼の釜は、窯元つかもとで製造され、釜の上半分に上薬が塗ってある茶色の部分に「横川駅」「おぎのや」という文字が刻まれ、釜の上には厚さ5mmほどの素焼きの蓋が付いています。
この釜を持ち帰れば家庭でも実際に1合の御飯を炊くことができ、おぎのやの公式サイトでも炊き方が紹介されています。

峠の釜めし本舗おぎのや

笠間焼(かさまやき)とは、主に茨城県笠間市で作られる焼き物です。 長い歴史を持っていますが、作品自体にはさまざまなスタイルがあり、「自由焼」ともいわれています。 江戸時代ごろに誕生し、日用雑器として使われてきた笠間焼。 1992年には国の指定する伝統的工芸品になり、現在300人以上の作家が活躍しています。

笠間焼の特徴や歴史- KOGEI JAPAN



笠間焼 Rikizo TAMAKI スリール マグカップ 320ml

    2.益子焼が生んだ二人の人間国宝


益子焼 コーヒーカップ&ソーサー(皿)


睡蓮鉢 益子焼 足付楕円鉢 灰釉

益子焼 丸と楕円のパスタ皿セット

益子焼の歴史の中には、2人の人間国宝の陶工が存在します。人間国宝の制度は、1955年にできました。
その第1回目の人間国宝に認定されたのが、濱田庄司です。濱田庄司は「用の美」を見出し、現在の益子焼の基本スタイルを確立させました。濱田は益子焼の作品を広く知らしめただけではなく、地元の陶工たちにも多大な影響を与えた人物として知られています。数多くの陶芸家志望の人々が移住し「陶芸の町・益子」を築き上げていきました。濱田の思想が多くの若い陶芸家に影響を与えたことから、現在の益子焼として発展を遂げています。
2人目は、濱田庄司の門下の島岡達三です。1954年に本格的に作品を作りはじめ、毎年個展を開きました。1964年には、日本民藝館新作展で日本民藝館賞を受賞します。その後1980年には栃木県文化功労賞を受賞し、1996年に人間国宝に認定されました。

出典:濱田庄司|濱田窯の作家
出典:島岡達三|島岡達三作品コレクション


濱田庄司作品 – 所蔵品|日本民藝館

島岡達三作品コレクション

濱田庄司の功績を語るうえで欠かせないのが民藝運動
普段の生活に使われる道具の中にこそ美しさがあると「用の美」を提唱し、その魅力の再発見・再認識を促す運動です。こうした活動は自身の作風にも色濃く反映しました。各地に残る民芸調の陶器に感化されながらも、そんな作陶スタイルでの濱田庄司の影響は益子だけでなく、全国の窯業地へ及ぶといわれます。


3.益子焼の発展に関わる人たちの創作活動

益子の土を生かした技法、味わいある魅力
益子焼の特徴は、陶土に他の物質を加えないことから厚みのある焼き物に仕上がることです。釉薬には石材粉や古鉄粉が使われ、犬筆を用いて色付けが行なわれます。重厚感のある色合いとなるとともに、ぼってりとした見ばえです。
益子の陶土は釉薬がのりやすいことから、白化粧や刷毛目(はけめ)といった様々な伝統的な技法により、独特の味わいのある力強い作品が生み出されています。
県内で採れる陶土は気泡を多く含むため、細かい細工は向かず、どうしても厚手になってしまいます。それが益子焼の特徴である、「ぽってりしたあたたかな手触りのうつわ」を生み出しています。砂気が多く、素朴な味わいを感じさせるところも魅力のひとつです。
益子焼の土は、同じく益子でつくられる釉薬との相性も抜群で、飴釉や青磁釉などによってつけられる色味も、味わい深い印象になります。益子焼は土の性質から焼き上がりは黒っぽくなりがちなので、それをカバーする糠白(ぬかじろ)釉で白化粧をする工夫もされてきました。 装飾は刷毛目や櫛目など身近な道具で描かれる、簡単で実用的なものが基本となっています。


つかもと 益子焼「Kamacco」(かまっこ)土鍋(土釜)ご飯 1合炊き 峠の釜めし 丼

わかさま陶芸 kinari 輪花皿 ギフトセット (大中小 3枚セット)益子焼

窯元よこやま 益子焼 大壺 高さ約1m6cm 胴径約77.5cm 口径約50cm

益子の特徴を見出し、生かした陶工の技法
益子焼は笠間焼の製法を受け継いでおり、笠間焼とは兄弟産地といわれるように関係が深く、また、笠間焼は信楽焼の陶工の指導で始められました。つまり、益子焼は信楽焼の系統に入るともいえます。しかし、水瓶、種壺、茶壺、茶器、徳利、火鉢、植木鉢など大物から小物に至るまでの幅広い製品群があり、繊細な技法で、サイズの大小や用途も多岐にわたる信楽焼と益子焼には、大きな違いがあります。

それは材料となる土の性質です。粘土として良質なため、つくり手にとっては扱いやすいといわれる信楽の土に対して、益子の土は粗く気泡が多いことです。決して扱いやすいわけではなく、薄く繊細な焼き物をつくるには不向きです。そのため益子焼では開窯からしばらくは、厚手の壺や甕(かめ)など、大型の日用品が多くつくられていたといいます。しかし、そうした土の性質だからこそ、益子焼はたっぷりと厚手であり、重量感を与えてくれます。作陶には不向きといわれた益子の土の性質は、今や特徴のひとつであり、魅力の源泉ともいえるのです。

益子の土の特徴は、使われる釉薬の種類にも影響を及ぼし、益子焼らしい作風を醸し出しています。土の性質ゆえに、黒味がかる地肌をカバーするため、糠白釉(ぬかじろゆう)で白化粧を施したり、茶色の柿釉(かきゆう)を用いられることを多くします。ほかに黒釉や青釉(緑色)なども多用されます。
これらの釉薬は、ひなびた色合いが、益子焼らしさを印象付け、刷毛目(はけめ)や櫛目(くしめ)などの素朴な装飾が施されることもあります。
また、益子焼の装飾である「流し描き」は柄杓(ひしゃく)や土瓶に入れた釉薬を、素地に流し掛ける模様のつけ方です。濱田庄司が得意としたといわれる、ダイナミックな技法です。

陶器は「成形」「素焼」「釉薬かけ」「本焼」と大きくわけて4つの工程を経て完成します。素焼の状態では、水分を吸収してしまったり、割れやすかったりと器の用途または機能が確保されないため、釉薬(ゆうやく)を施します。釉薬をかけて焼成することで陶器特有の多種多様な表現が可能となり、陶器の大きな魅力と言えます。

“ 用があって形がうまれ、形があってはじめて美が具わる”




4.実用性を備えた日常の生活道具、「用の美」の「民藝運動」

全国的な広がりを見せる民藝運動
濱田の創作活動に呼応するように、各地から作家が集まるようになり、益子は「創作作陶の地」となり、民藝運動が全国的な広がりを見せました。職人の手による日用品に「用の美」を見いだし、「美は生活のなかにある」と提案した民藝運動です。工業製品にはない手作りのぬくもりを讃えながら、作家性の高い作品とも異なる「健全な美」を取り入れる暮らしに注目が集まりました。

イギリス、セントアイブスの窯(リーチポタリー)
バーナード・リーチは民藝運動の中心人物として活躍した柳宗悦や、民藝運動に関わった富本憲吉河井寛次郎、濱田庄司らに影響を与えたイギリスの陶芸家・画家です。香港で生まれたリーチは、幼少期から日本で暮らしたこともあり、芸術を好んだリーチは、日本人の芸術家との交流がありました。日本への移住を果たし、東京・上野に居を構えたリーチは、自宅に窯を築き、陶芸の世界にのめりこみます。33歳となったリーチはイギリスへの帰国を決め、同行した濱田庄司の助力でイギリスのセントアイブスに窯(リーチポタリー)を築きました。1923年に関東大震災が発生し、濱田は日本に帰国します。

リーチ工房/Leach Pottery | Gallery St. Ives | Tokyo Japan


民藝運動は、思想家の柳宗悦、陶芸家の河井寛次郎、富本憲吉、濱田庄司らによって提唱された運動のことです。装飾を重んじる観賞用の工芸作品が主流だった1926(大正15)年、名もなき職人が作る日常の生活道具に光を当てて、新しい価値観を提示しました。この四人の連名による「日本民藝美術館設立趣意書」が発表された1926年(大正15)4月1日とされています。

民藝運動の中心となる益子
濱田庄司が益子に移住して濱田窯を創始するのも、民芸運動のスタートと同時期でした。益子は、関東を代表する伝統的な陶器産地ですので、民芸運動が注目しうる産地の一つではありましたが、濱田が移住したことで、益子そして濱田窯は、民芸運動と深い関係を持つことになりました。柳や河井も複数回、濱田窯と益子を訪れています。また、再来日したリーチは、ここに長く滞在し、濱田とともに仕事をしています。現在も濱田窯に残る茅葺きの長屋門は、1934年に来日したリーチが益子で作陶する際の仕事場として建てたものでもありました。庄司の存在は、益子の窯元の仕事を民芸運動と結びつけることにも寄与し、益子の仕事が広く全国,あるいは世界に紹介されることにもつながりました。

出典:Onlineジャーニー
出典:河井寬次郎のプロフィール
出典:日本近代陶芸の巨匠・富本憲吉の業績振り返る|京都新聞