太陽の光こそが生命の根源
農耕を中心に生活する民族にとって、作物の実りを与えてくれる太陽は何よりも大切なもの、その恵みへの信仰は古代より生まれていました。毎日、朝は東から昇って夕方西に沈み、大地に恵をもたらす太陽は、自然の中で生きてゆく人々にとって、その生活に大きな影響を与える神として崇められてきました。太陽の動きから季節の移り変わりを知り、また、月の動きから月日を意識することで「暦」を作りました。
太陽の動きで一年を約14日間の期間で24に分けた二十四節気は、季節の変動を日々の暮らしに役立てています。一年のうち、太陽が最も高くなり、昼間の時間が最も長く、夜が短くなるのが「夏至」、その逆が「冬至」、昼と夜が同じ長さになるのが「春分」と「秋分」です。太陽は神であり、太陽の光こそが生命の根源と考えていたので、太陽が弱まる冬至の日は最悪の日になり、人々は恐れ、厄除けをし、再び太陽の恵みが与えられることを祈るのでした。
冬至の天文学
季節の変化があるのは、地球の自転軸が公転面に対して23.4度斜めに傾いており、一年をかけて太陽の周りを楕円軌道で公転しているからです。夏の太陽は高く昇り、日照時間も長いが、冬は太陽高度が低く、日照時間も少なくなります。これが季節をもたらす大きな要因です。
夏が過ぎ、秋が過ぎ、日に日に寒くなるにつれて、太陽はだんだんと低くしか昇らなくなっていき、昼の時間は短くなり、日の出の方向も南に寄っていきます。そして南中の太陽の高度が最も低くなった日が冬至となります。天文学的には、太陽黄経がちょうど270度になる瞬間を含む日が冬至日というわけです。
季節の変化は、太陽のエネルギーが地球の表面に当たることによる地表面の温度の変化が主な原因です。東京付近にあたる北緯約35度の地点では、南中時の太陽の高度・光の入射角度は、冬至で約31度、春分と秋分で約55度、夏至で約78度です。太陽光の入射角度が小さいほど、単位面積あたりに地表面に入射する太陽エネルギーは小さくなります。
このため、冬至の頃には地面や海面が最も温まりにくく、気温は冬に最も低くなります。ただし、昼間の長さが冬至の頃は最も短かいことも気温の変化に影響しています。
冬至は昼間の太陽が最も低く、一年の中で最も昼間の時間が短くなる日です。しかし、昼間の時間が最も短いからといって、冬至の日の日の入り時刻が最も早く、日の出時刻が最も遅くなるわけではありません。
日の入りが最も早いのは冬至よりも前の時期で、一方、日の出が最も遅くなるのは冬至よりも後の時期で、ちょうど正月の頃になります。その中間にあたる冬至が、昼間の長さ(日の出から日の入りまで)がもっとも短い日です。
地球の自転軸が傾いていることで、地球の北半球と南半球では、地球の公転によって一年の間に太陽光の差し込む角度が変わります。日の出や日の入りの場所は、毎日少しずつ変化し、東京では、3月の春分の日の日の出は真東だが、6月の夏至にはほぼ東北東に、9月の秋分の日に真東となり、12月の冬至に東南東になった後、翌年の春分の日に真東からのぼります。
天球上で太陽が動く距離は冬至より夏至のほうが長くなり、また南中時の太陽は冬至には低く、夏至には高くなります。太陽は天球上を一定の速度で動いていくので、冬至には昼の時間が短いのもこのためです。
古代、冬至は新たな一年のスタート
古代中国では、一年の始まりは冬至でした。地面に棒を立て、太陽が南中した時の影の長さで太陽の高度を計ることができます。寒くなるにつれ南中の棒の影は長くなっていきますが、その影が、ほんの少し短くなった日があれば、その日を冬至と定めていました。弱まった太陽が再び蘇る冬至こそが、年初にふさわしい時とされていました。
寒さが極まった後は春が巡り来ることを「一陽来福(いちようらいふく)」と呼び、冬至を意味し、良くない事柄が続いた後にこそ、良い事柄(幸運)がやってくるとされました。冬至を境に太陽が生まれ変わり、陽気が増え始まることで、新たなスタート地点にふさわしい、一年の始まりの時とされたのです。
冬至を年初とする時代の暦は太陰太陽暦であるから、実際には、冬至の後の朔(月と太陽の視黄経が等しくなること、また、その時刻のこと。 現代的な定義での新月(しんげつ)と同義)の日から、新しい年が始まるとされ、元旦とされていました。中国では冬至を元旦としたことで、暦の基準となっています。しかし、冬至の日が必ず新月になるわけではないので、冬至を含む月を11月と定義しています。
冬至の日が11月1日となることがあり、このような太陽が復活するおめでたい日と月が復活する日が重なることで、これを「朔旦冬至(さくたんとうじ)」といい、おめでたい日というわけです。旧暦(太陰太陽暦)では、19年間に7回(19年7閏=235月)の閏月をいれる周期で訪れます。
19年に一度の特別な日
冬至は二十四節気の一つで、太陽暦では12月22日または23日に当たります。太陽が最も南に片寄るので、北半球では一年中で最も昼が短く、夜が最も長くなります。冬至までは、昼の時間が僅かずつ短くなりますが、この日を過ぎると、今度は僅かずつ昼の時間が長くなっていきます。日本では、昔から冬至を節日(せちにち)として祝う習慣があり、特に、その日が太陰太陽暦の11月1日に当たると、「朔旦冬至」と言って瑞祥(ずいしょう。吉日として非常にめでたい)とされ、宮中では祝宴が行われました。
近年の朔旦冬至は1984年・1995年・2014年であり、その次は38年後の2052年となります。2014年の19年後である2033年が朔旦冬至にならないのは、そもそも冬至を含む日(旧暦11月30日)と朔を含む日(閏11月1日)が一致しない(5時間差ながら日を跨いでしまう)ことが原因です。
中国や日本では、冬至は一年で最も低くなり、昼の時間が最も短く、夜が長くなります。だから、太陽の力が一番弱まり、元気のない日になってしまいます。しかし、冬至の翌日から日が長くなっていくことから、太陽が生まれ変わり、力が蘇えって運気が上昇に転じると考えられていました。冬至は、こうした前向きな意味合いを含んだ言葉でした。この時期にかぼちゃを食べて栄養をつけ、体を温めるゆず湯に入り、無病息災を願いながら、寒い冬を乗り切る知恵としていました。
「ん」のつく食べ物で、寒さを乗り切る
ゆずの成分には、血行促進作用があり、身体を芯から温めてくれ、美肌効果、リュウマチ、冷え性にも効果が期待され、気分を和らげる作用もあります。ゆず湯は、「ゆず」だけに「融通が利くように」という言葉にもかけられています。また、ゆずの木は病気に強く寿命も長いので、昔の人はそれにあやかろうと考えたのが、ゆずを風呂に入れることでした。
現在でも、冬至にはかぼちゃを食べる習慣があります。かぼちゃにはビタミンAやカロテン、カルシウムや鉄分などが豊富な緑黄色野菜で、風邪や脳血管疾患(脳出血などによって起こる阪神不随、手足のマヒなど)の予防に効果的とされます。昔は夏に収穫したかぼちゃを冬まで保存し、それで栄養補給をして、冬の寒さに備えていました。
かぼちゃは「南瓜(なんきん)」ともいわれますが、「ん」がつくものを食べると「福が来る」「運気が上がる」といわれる「冬至の七草(七種)」があります。「ん」が二つ付く食材ほど効き目があり「運気(ん)が上がる」「たくさんの運(ん)が呼び込める」などといわれています。
「なんきん(かぼちゃ)」「れんこん」「ぎんなん」「にんじん」「きんかん」「かんてん」「うんどん(うどん)」・・・以上、冬至に食べる「冬の七草」です。
西洋の冬至とクリスマス
北半球の諸民族の間には、冬至が太陽の誕生日だとする思想があり、冬至を祝う行事はかなり広く行われてきました。クリスマスが12月25日に行われるのも、救世主イエス・キリストを太陽になぞらえ、太陽の誕生日と考えられていた「冬至節」と結び付けたためだろうという説もあります。現在では、12月25日をキリスト生誕の日として、世界的にクリスマス(聖誕祭)のお祝いをしますが、実はキリストの誕生の日については、聖書に記載がなく、事実は不明でなのです。それが12月25日に決められたのは4世紀になってのことで、今では325年ニーケア公会議(キリスト教の重要人物が集まってキリスト教に関する様々な問題を解決するための会議。ニケーアは現在のトルコの「イズニック(Iznik)」という町)で決定されたといわれています。この決定は、古代のヨーロッパでは12月25日を冬至と定める地域が多く、この日の前後に各地で宗教や神話に基づく、太陽の復活を祈る冬至祭が行われていたためとされています。
イギリスは北海道より緯度が高く、北海道より北に位置しているように、ヨーロッパ諸国は日本より緯度が高い地域です。緯度が高いというと「冬は寒い」というだけではなく、「夏と冬の日照時間の差が激しい」のです。例えば、北欧には「白夜」があります。夏の一時期、一日中、太陽が沈まない理由は、緯度が高いからです。逆に冬は非常に日照時間か短くなるのです。
北欧の地域にとって、冬至は恐怖
日本は緯度が低いので、夏と冬の間に日照時間の差があるといっても、生活に支障のあるほどではありません。しかし、イギリスでは夏と冬の日照時間の差は強烈です。夏は夜の8時や9時になってもまだ空が明るいです。だから、イギリスではサマータイムという制度が成立するのです。反対に、冬は昼の時間が短く、夕方4時には暗くなってしまいます。そんなヨーロッパの北欧の地域にとって、冬至は恐怖となります。一日中太陽の出ない極夜が訪れると、このまま太陽がなくなってしまうかもしれない・・・と錯覚するほどに昼の時間がなくなってしまいます。だから、冬至を特別視して神話化する必要がありました。こうしたケルトの「冬至の祭り」がヨーロッパの各地に広まっていきました。
初期のキリストの教会の指導者も、こうした冬至の祭りの習慣のある異教徒をキリスト教に惹きつけようと、12月25日の冬至の日を「イエス・キリストの聖誕祭」に切り替え、太陽の誕生日がクリスマスとして祝祭が行われるようになりました。