暮らしと生きる伝統工芸、人形


子供の幸せを願う気持ちを人形に込める
日本の暦にある5つの節句を「五節句」といいます。 五節句は、1月7日の人日、3月3日の上巳、5月5日の端午、7月7日の七夕、9月9日の重陽です。古くから季節の節目となる日の年中行事を行う日として、大切に扱われてきました。中でも3月3日の桃の節句に雛人形を、5月5日の端午の節句に五月人形を、子供の成長と幸せを祈って飾る風習があります。人生の節目に飾られる雛人形や五月人形は、家族の縁や絆・愛情を確かめる機会であり、家族が気持ちを一つにする象徴的な行事として日本の暮らしに息づいてきました。季節の区切りに家族が絆を深め合うこと、また、節句毎の飾り付けや片付けを通じて、暮らしのけじめを知る大切なことを学ぶ機会でもあるのです。
今も日本各地で行われている「お祓い」の風習のひとつに、身代わりとする紙の人形に、子供の名前や年齢を書き、それを身体でなでたり、息をふきかけたりして、神社のお炊き上げでお祓いをする行事があります。 これは、奈良時代の穢(けが)れ払いの儀式の人形となり、「流し雛・雛流し」「形代」の風習もとになっているのでしょう。 幼い子供たちの無事な成長が、親としての願いで、「我が子が無事に成人するまで健康でいられますように…」と祈りを込め、人形で厄払いをしました。現在でも、子供の幸せを願う気持ちを人形に込めているのです。


博多人形
博多人形は福岡市の博多で作られる素焼きの土人形に彩色を施したものです。博多近郊の粘土を材料とし、人形の原型に粘土を貼りつけた「型」を彫塑(ちょうそ)し、素焼にしたものに「胡粉」を下地にした泥絵の具などで着色、彩色した人形です。作品は能や歌舞伎の登場人物、美人や子供、武士、七福神などの縁起もの、雛人形や五月人形などの節句もの、干支など様々です。
発祥は1601年、関ヶ原の戦いの論功行賞で、豊前国より筑前国に入府した黒田長政は、福岡城築城の際に多くの職人を集めました。この職人の中の瓦職人、正木宗七が鬼瓦の細工物から焼き物作りの技法を学び、仕事の合間に焼いた人形が現在の博多人形の原型となったそうです。江戸時代の後半には、素焼きものを製造する陶工・中ノ子吉兵衛が庶民向けに人形を作り、これが現在の博多人形の原型であるとされています。これら名工たちの活躍により、各地との交易が盛んになり、博多人形は博多の土産物として広く知られるようになります。
明治期では、パリなど博覧会で高い評価を受け、日本を代表する人形は「博多人形」の名で知られ、海外へも輸出されるようになりました。博多人形は、床の間や飾り棚に置かれる格式ある人形のイメージですが、むしろモダンな住まいのリビングルームや寝室にさりげなく飾ることで、やさしい癒しになるでしょう。


京人形
京人形は、京都府の京都市周辺で作られている日本人形です。現在、京人形と呼ばれるものには、雛人形をはじめ、五月人形、浮世人形、風俗人形、御所人形、市松人形などがあります。平安時代に公家や貴族の子女達の遊び道具の「ひいな人形」が原型です。

天児(あまがつ)、這子(ほうこ)等、子供の身に悪いことが起きないようにと願い、子供の身代わりに悪いことを引き受ける形代(かたしろ)の役として用いられたのが人形の始まりです。
天児はお守りとして子供のそばにに置き、這子は、はいはい人形・はいこ人形とも呼ばれ、枕元に置かれました。


人形作りの工程は細分化されており、頭師・手足師・髪付師・小道具師・胴着付師などの職人たちにより各工程が細かく分業化されています。江戸時代でも、人形作りは京都を中心に展開し、人形職人も数多く出るようになり、節句前の人形師たちの店先には、さまざまな人形が並べられました。御所人形は宮廷から諸大名への贈答用として重宝され、今日に続く京人形の典型が完成されたといわれます。


宮城伝統こけし
宮城伝統こけしは宮城県の仙台市や白石市の周辺で作られている人形です。1981年に国の伝統的工芸品に指定されました。宮城県内には「鳴子こけし」「遠刈田こけし」「弥治郎こけし」「作並こけし」「肘折こけし」の5系統があります。こけしの産地は山間部・温泉地に多く、山で木材を挽き、お椀やお盆など木製の生活用具を制作していた「木地師(きじし)」と呼ばれる職人たちが、湯治場で販売する子供向けのお土産品として、顔や模様を描いた木人形を作り始めたことが、こけし誕生のきっかけといわれています。
こけし製作のろくろ挽きの技術は、9世紀に清和天皇の第一王子である惟喬親王が、近江国でろくろ挽きの技術の指導をされたことから広まりました。技術を修得した木地師達は、東は関東・東北へ、西は四国・九州へと移り、木地師の集落を形成して行きその地域特有の工芸を発達させました。現在の宮城へ移って行きた木地師達も、お盆やお椀などを作る一方で、男の子には「独楽(こま)」を、女の子には「きぼこ(こけし)」などの木地玩具を作り、それらは子供の玩具から大人のコレクションへと変化していったのです。なお、現在のこけしの形が完成されたのは、18世紀の享保年間であったといわれています
当初、こけしには名がなく、「きでこ」「こげす」「きぼこ」など、異なる名で呼ばれ、漢字では、「木削子(こげし)」「小芥子(こけし)」と表記されていましたが、1940年に「こけし」とひらがな3文字に統一することが決められました。


江戸木目込人形
木目込人形は、江戸時代中期に京都で生まれ、江戸に伝わりました。桐塑(とうそ)で作った土台に筋彫りを入れ、布を入れ込んで作られるので、この布の端を押し込む動作を「木目込む」から、木目込人形と呼ばれるという説や、「衣裳を人形自体に『きめこむ』ところから」だともいわれます。木彫りの胴に細い筋に裂張りという布を入れ込み、衣装を着ているように仕立てた人形です。
木目込人形は、18世紀の元文年間の京都で、当時の上加茂神社の高橋忠重という人が、神社の祭礼用の道具の余りで木彫りの人形を作り、神社の衣裳の残り裂を木目込んだのが始まりといわれています。当時、加茂人形・加茂川人形・柳人形と呼ばれ、のちに木目込人形と呼ばれるようになりました。その後、京都から江戸に移り住んだ人形師により、木目込人形は「江戸風」に発達していきました。江戸木目込人形は、京都のものに比べ、やや細面で目鼻立ちのはっきりとした顔が特徴といわれています。
明治の後期に、古来からの製造法から、桐塑を型抜きして胴体を作るという現在の製造法になりました。この技法により、多量生産や形態の多様化が可能になり、様々な種類の木目込人形が作られるようになりました。軽くて丈夫、しかも型崩れの心配が無く、全体的にコンパクトで幅をとらない木目込人形は、生活スペースが狭い現代人の生活に合っています。


江戸押絵
江戸押絵とは 東京都墨田区、江東区、葛飾区を中心に作られる工芸品です。 布に綿をくるみ、それを板などの台紙に貼ることで立体的な絵を作成する技法で、特に羽子板が有名です。江戸時代に盛んになり、衣装絵錦絵などと呼ばれ、手箱、額、羽子板などの日本の伝統的な工芸となりました。
15世紀の室町期に、宮中で新年を祝い女性同士で遊んだのが羽根つきの始まりで、邪気を祓う正月の遊戯、女の子の誕生のお祝いとして今に伝わっています。新年に行われる羽根つきには、人々の無病息災を願う想いが込められ、災いを「はね」のけるという縁起物、飾り物として豪華な羽子板が登場したのは、17世紀の江戸時代です。 女の子が生まれて初めて迎えるお正月の「初正月」に羽子板を飾る習慣が各地で起きました。羽根を打つ羽子板を女児の誕生祝いに贈る習慣が始まり、綿を布でくるみ、立体的な絵柄を仕上げる押絵の技法が発達しました。
押絵の技法は平安時代の屏風やふすまに施す「貼り絵」の技法といわれています。宮中女官たちが、絹織物生地などの端切れ和布を使う楽しみとして屏風、雛人形、香箱などを作ることで技法が継承されてきました。江戸押絵は、絹織物や綿織物を使った部品に日本画の技法を用いて上絵や面相を描き、浮世絵の絵柄を表現しているのが特徴です。人物の似顔絵のみならず、風景や動植物などさまざまなものが題材となります。現在の江戸押絵は羽子板、肖像画、額装のほか屏風や団扇の装飾などにも使われ、その美しさは広く楽しまれています。