今も受け継がれる「亥の子」の行事

「勤労感謝の日」は新嘗祭が由来
「新嘗祭(にいなめさい、にいなめのまつり、しんじょうさい)は、宮中祭祀のひとつで、大祭、かつての祝日でした。新嘗祭は、天皇がその年に収穫された新穀などを「天神地祇(てんじんちぎ、 天にある神と地にある神。 あらゆる神々という意味)」に供えて感謝の奉告を行い、これらの供え物を神からの賜りものとして自らも食する儀式です。「新」は新穀、「嘗」は奉る(たてまつる)、舌の上にのせて味をためすという意味で、「新嘗」はその年の収穫された新穀を神様に奉って恵に感謝し、口にすることを表しています。
新嘗祭の歴史は古く、日本書記には飛鳥時代に行ったという記述があります。毎年11月23日に宮中で執り行われ、五穀豊穣を祈願する「祈年祭(きねんさい、毎年2月17日の行われる宮中祭祀の小祭)」と相対する重要な祭祀となります。新嘗祭は宮中恒例祭典の中の最も重要なものとされ、新天皇が即位の礼の後、初めて営まれる大規模な新嘗祭を「大嘗祭(だいじょうさい)」といいます。現在でも、全国の神社で行われる行事です。
古くは、旧暦11月の二回目の卯の日に行われていた新嘗祭でしたが、1873年(明治6年)に太陽暦(グレゴリオ暦)が導入されると、新嘗祭を行う旧暦11月の二回目の卯の日は新暦に当てはめると、年をまたぎ1874年1月になっていまい、都合が悪いということで、新暦11月の二回目の卯の日であった11月23日に行うことして、休日となりました。11月の二回目の卯の日は毎年変動すますが、翌年以降も祭祀・休日とも11月23日に固定されました。
第二次世界大戦後、新たに日本国憲法が制定され、祝祭日から「国家神道の色彩を払拭するという方針」のもとで、新嘗祭に代わり「勤労感謝の日」が規定されました。なお、戦後のGHQの占領政策により、アメリカ合衆国やカナダなどの祝日「Thanksgiving Day(感謝祭)」やアメリカ合衆国の連邦政府の祝日「Labor Day(労働者の日)」に相当する祝日を設けることとなったことが由来と伝わっています。

「御玄猪」から広まる「亥の子」の行事
かつて、平安時代の宮中で行われた「御玄猪(おげんちょ)」は、旧暦十月、新穀でついた餅を食べる行事でした。次第に貴族や武士にも広がり、「玄猪」「亥の子」として民間の行事に定着しました。亥の月(旧暦十月)の亥の日、亥の刻に「亥の子餅」を食べ、無病息災、家内安全や多産の猪にあやかり子孫繁栄を祈りました。農村ではちょうど新穀の刈り入れ時期でもあり、収穫を祝う意味でも行われました。
亥の子の由来は、古代中国の無病息災を願い、穀類を混ぜ込んだ餅を食べる宮廷儀式「亥子祝(いのこいわい)」に起源があるとされます。この風習が平安時代になると日本に伝わり、宮中で執り行う行事となったといわれています。また、景行天皇(けいこうてんのう、日本の第12代天皇)が、ヤマト王権・大王(天皇)に恭順しなかった土豪、九州の土蜘蛛族を滅ぼした際に、「椿の槌で地面を打った」ことが亥の子祝いの由来になったと伝わります。椿は、古来、繁栄の象徴、神聖な魔除けの木として扱われていました。
亥の子の祝いをおこなっていたのは、九州・四国地方が中心で、江戸から甲州にかけての、亥の子の風習の記録がみられるのは江戸時代以降になりますが、関東以北での記録は全くありません。

亥の子の日の子どもたち「亥の子つき」
亥の子の行事は、かつて西日本を中心に広く分布していた農村の年中行事のひとつです。亥の子の日には、亥の子餅を食べたり、こたつ開きや囲炉裏開きを行います。この祭りの呼び方は「亥の子の祭り」「亥の子の祝い」「お亥の子さん」など地域により様々で、子どもたちによる「亥の子つき」が行われます。縄を縛りつけた大きな石「石亥の子」や、新しく収穫された藁で作る「亥の子槌」を持って近所を回る行事です。
旧暦十月の亥の日の夕方から翌朝早朝にかけて、地区の子供たち(多くは男子)が集まり、近所の一軒一軒を巡って、歌を歌いながら平たく丸いもしくは球形の石に繋いだ縄を引き、石を上下させて地面を搗きます。石の大きさ重さも地方により異なります。地方によって歌の内容は異なりますが、亥の子のための歌が使用されています。歌詞は縁起をかつぐ内容が多いが例外もあります。子供たちが石を搗くとその家では、餅や菓子、小遣いなどを振舞います。振る舞いの無い家では悪態をつく内容の歌を歌われることもあります。
石亥の子や亥の子槌で地面を叩いたり、突いたりしながら近所の家を回って、亥の子餅をや小遣いを貰ったりします。地面を叩くのは、田の神を天(あるいは山)に返すためと伝えられています。石のほか藁鉄砲(藁束を硬く縛ったもの、より大きく快い音を出す工夫をしていた子供もいた)を使う地方もあります。石を搗いた後は各家庭の庭先に石の形に半球の穴がのこり、大きいほど喜ばれました。またその風景が初冬の風物詩でした。
イノシシの子のような形をした「亥の子餅」を食べると、万病から逃れるといわれています。「亥」は中国の陰陽五行説で水性にあたり、火災を逃れることから、亥の子の日に囲炉裏やこたつ開きをする風習があります。

西日本に残る「亥の子」の伝統文化
「亥の子餅」は紫式部の『源氏物語』にも登場し、大豆・小豆・大角豆(ささげ)・ごま・栗・柿・糖(あめ)の7種類の粉を入れてついた餅と書かれています。鎌倉時代にはイノシシが多産であることから、子孫繁栄を願う意味も含まれました。
亥子祭は平安時代に宮中で行われていた年中行事「御玄猪(おげんちょ)」を再現した祭りです。 雅楽が流れる中、宮司が天皇に、祭員が殿上人に扮し、5人の奉仕女房とともに拝殿で「おつき式」が優雅に繰り広げられます。亥子餅をつく儀式の後、平安装束の一行が京都御所へ餅の献上に行き、参加者はイノシシの陣羽織姿でそれに従います。亥の月(旧暦10月)の亥の日、亥の刻に餅を食べると病にかからないと考えられた中国の民間信仰を起源としています。
亥子祭は例年11月1日に、和気清麻呂公を祭神とする京都の護王神社恒例の特殊神事として行われています。平安時代に亥の月の亥の日の亥の刻に天皇が自ら餅をつき、臣下とともに食することにより、無病息災を祈願した宮中の年中行事・御玄猪(玄猪の式)を再現しています。本殿ノ儀では神職による祝詞奏上などの神事が行われ、御春ノ儀(おつきのぎ)は舞殿で、亥子囃(いのこばやし)を唱えながら餅つきが行われ、出来上がった亥子餅は神前に供えられます。当日、午後5時より斎行、午後8時30分終了予定にて実施されます。

東日本の行事は「十日夜」
亥の子の行事と同様に、旧暦十月十日に行われる収穫祭を、「十日夜(とおかんや)」と呼んで、東日本に広く分布しています。稲の収穫に感謝し、翌年の豊穣を祈って、田の神に餅・ぼた餅が献じられます。稲刈り後の藁を束ねて藁苞(わらづと)や藁鉄砲を作り、子供たちが藁鉄砲を持ち、訪問した家の周りの地面を叩きながら唱えごとをする行事が行われます。地面の神を励ますためとも、作物にいたずらをするモグラを追い払うためともいわれます。
この日は、稲の刈り取りが終わって田の神様が山に帰る日とされており、地域によって様々な行事が行われます。長野県では、田んぼを見守ってくれた案山子を田の神に見立てて、田から内庭に移して供え物をする「案山子上げ」を行われます。埼玉県では、藁鉄砲で大根畑を叩いて「音に驚いた大根が抜け出してくる」「音を聞いた大根が背伸びをして大きくなる」という伝承もあります。
日本の神話には夜の世界を司る月の神様「月読命(つくよみのみこと)」があり、月を見る慣習は古来からあったといわれます。農耕に影響を与える月の満ち欠けを暦(こよみ)にした「太陰太陽暦」ができたのは飛鳥時代です。平安時代には、貴族の間でお酒の杯に映した満月を眺めたり、月の和歌を詠んだり、娯楽として楽しむお月見が流行っていました。江戸時代には庶民にも広まり、秋の収穫祭とともに月見団子を添えて楽しんだようです。
空気が澄み渡る、秋の風物詩であるお月見は年に3回、夜空に美しく輝いています。お月見は、「十五夜・仲秋の名月(旧暦8月15日)」「十三夜・後の月(旧暦9月13日)」「十日夜(旧暦10月10日)」の年3回あります。
「十五夜・十三夜」合わせて見れば「二夜の月(ふたよのつき)」
   十五夜か十三夜のどちらか片方だけのお月見を「片月見」といい縁起が悪い
「十五夜・十三夜・十日夜」3回見れば「三月見(さんつきみ)」
   十五夜、十三夜、十日夜と、この3日間が晴れてお月見ができると縁起が良い